1984年から1万円札の肖像になっている福沢諭吉は、、摂津国(現在の大阪市)にある中津藩(現在の大分県中津市)の下級藩士で儒学者の次男として生まれています。
福澤諭吉は、当時、まだ正義の国家であったアメリカ合衆国のマサチューセッツ州ボストンにあるハーバード大学と連携し、自身が設立した慶應大学を東洋のハーバード大学にすることで、何とかイギリスの支配から脱却させようとしていたように思います。
実は、今も昔もイギリス人の残虐さは並外れていたというわけです。アメリカ先住民のインディアン約3000万人を皆殺しようとし、それを推進したのがイギリス王室であったとされています。
また、自動織機で作った粗悪な布を売るためにインド人職工の全員の手首を切ったのも、アヘンを中国に流し込んだのも全てイギリス王室が命令したことであり、これまで世界の金融市場を支配している金融街シティー・オブ・ロンドンは、その下僕です。
この連中を同じ人間と思うことが間違いであって、残念ながら悪魔の化身であるイギリス王室について、日本のメディアや政治・経済評論家、そして大学教授たちのような日本の知識階級層は何も知らないようです。
ところが、福沢諭吉は1901年に亡くなる前まで、イギリス支配がいかに残酷なものか、ということを知っていたものと思われます。今も昔も、穏やかそうにしながら狡猾な支配をイギリスは行っています。アメリカ大統領でさえイギリス王室には逆らえないほどです。
実は、福沢諭吉が亡くなった1901年には、イギリスのヴィクトリア女王も亡くなっています。この年からちょうど20世紀という新しい時代が始まり、世界が大きく変わっていったわけです。
福澤諭吉旧居・福澤記念館
最近、私は大分県中津市にある「福澤記念館」を訪れました。約5時間ほどで全ての展示物を見ることができましたが、明らかに福沢諭吉はフリーメイソンという結社に入っており、そこから優れた知識人や芸術家、技術者、それから資本家、経営者たちが誕生していることが分かります。
その流れは今でもありますが、明治時代の日本人フリーメンソンリーは今とは比較にならないほど、優れた才能や能力、芸術、そして技術力で日本を栄えさせたほどの人物ばかりであったということです。
それがフリーメイソン、ユニテリアンというキリスト教の一派であって、いわゆる長州ファイブの一人で初代総理大臣の伊藤博文なども入会していたとされています。
長州ファイブ”に学ぶ、希薄化した日英交流を見直す
それに対して、土佐藩出身の板垣退助たちが薩摩・長州藩閥政府による政治に対して、「自由民権運動」という憲法制定や議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げたわけです。
その後、明治になって板垣退助は征韓論を主張しましたが、欧米視察から帰国ばかりの岩倉具視たちの国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂していきました。つまり、自由民権運動を行った人たちは、世界の大きな動きを知らなかったことは明らかです。
伊藤博文や福沢諭吉は、この自由民権運動を行った人たちのことを「世界を知らない人たち」と判断していたと思われます。今でも、このように「今だけ、カネだけ、自分だけ」をモットーに裁判までして自分の利益だけを得ようと考えてい人間は大勢存在しています。
要するに、そのような人間は海外旅行・留学には行ったことがあるけれど、実は「世界の本当のことが知らない人たち」であるということです。今、この枠組みでの見方が重要になりつつあります。福沢諭吉は、極めてずば抜けた日本の最高知識人であったことがわかるはずです。
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