様々な分野で「信仰心」を持つ人々が活躍する時代が到来B 「無教会主義の信仰心」
(出典:2021年2月2日 Atlasマンツーマン英会話)
「トランプ劇場の第2幕」が2月から始まったため、Peters.jpのコラムをこちらのサイトで続けることにしました。
さて、年末年始から毎日のように札幌市内では救急車や消防車が走り回っています。しかし、第3波の感染者数はすでにピークアウトしているように思います。100年前のスペイン風邪のパターンであれば、3月には普通の生活ができるようになるはずです。
2月こそ正念場であり、ここで何とか感染者数を減らすことができれば一旦収束します。私は、昨年から何度も自宅の近所にある「札幌伏見稲荷神社」に通い、新型コロナウイルスの早期終息を願ってきました。
「伏見稲荷神社」と言えば、4世紀後半頃に半島から日本に渡来してきた「秦氏」が氏神を祀ったと言われています。その他、景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人が祖とされていたり、秦の始皇帝の末裔にあたる漢民族であるとも言われています。
また、6世紀頃に「京都に景教の教会があったことを発見した」と、サレジオ会宣教師のマリオ・マレガ神父が1952年に「東方学会紀要」に提出した論文に書かれている、と記されています。つまり、浄土真宗とキリスト教には何らかの類似性があるのかもしれません。
南米最古級の修道院で初点=茶道裏千家が厳かに新趣向=千利休の頃からキリスト教と関係
(出典:2021年1月18日 JORNALニッケイ新聞)
さらに、茶道の始まりは聖餐式であり「キリスト教茶道」とも呼ばれているようです。例えば、千利休が隠れキリシタンであり、裏千家にキリシタンの様式が受け継がれているという話もあるほどです。
日本でクリスチャンが100万人を超えない理由は、すでに仏教や神道の思想の中に取り込まれている可能性があります。広い意味での「神仏習合」とも考えられますが、作家の内田樹は本で「神仏習合は雑種文化の典型的事例」と語っています。
簡単に言うと、千利休は大坂の商人であった頃はキリスト教の信者でもあったということです。その他、戦国時代では有名な織田信長なども一族が全員キリスト教の信者であった可能性があります。
本能寺前夜に血判状 新史料が明かす明智光秀謀反の決意
(出典:2021年1月15日 朝日新聞)
歴史では、信長は明智光秀に殺されたと言われていますが、実は家来の豊臣秀吉やライバルの徳川家康に殺された可能性も残っています。当時、イエスズ会(ローマカトリック教会)は宣教する際に日本人指導者を探していたように思います。
実際に、宣教師たちはポルトガル商人と結託し、日本人女性や子どもを、ヨーロッパ各国に奴隷として輸出していたとも言われています。一部は東南アジアに送られましたが、今でも世界中に500年前の日本人の末裔がいることはよく知られています。
そのことを裏付けているのが、信長が安土城を築いて「天守閣」と名付けたことです。天守とは「天主」のことであり、つまりキリスト教の神のことです。信長による日本統一が成し遂げられようとしていた時、光秀が送り込まれたということです。
当然、信長の暗殺を指示したのは秀吉や家康ですが、その後秀吉が光秀の口封じに成功して日本統一を果たします。光秀は明らかに仏教徒であり、信長が比叡山を焼き討ちした際に天台宗の僧侶を助けたことが知られています。
一方、イエズス会は長崎の出島を拠点にキリシタン大名を教化しつつ、軍事的な組織として動いていたわけです。ところが、長崎の出島を視察した秀吉はその光景に激怒し、隠れキリシタンの弾圧に踏み切りました。
他方、家康も仏教徒であることで秀吉と共に、イエズス会が企てる日本のキリスト教化を徹底的に弾圧し、日本各地で踏み絵を踏ませて処刑していきました。踏み絵を踏んだとしても、信仰を失ったことにならないと解釈した隠れキリシタンもいたと思います。
茶の湯の革命家・千利休が死を選んだ理由謹慎処分にまつわる噂とは
(出典:2019年6月15日 exciteニュース)
例えば、千利休はキリスト教の信者であったとして考えると、何らかの方法で利休を保護した仏教の宗派が存在したと思います。なぜかと言えば、仏教では様々な宗派が混在しており、お互いに反目していたからです。
千利休の本拠地が「大徳寺」であることから、朝廷や天下統一を果たした秀吉からは狙われていたように思います。寺を隠れ蓑にして活動していたのが隠れキリシタンの千利休であり、茶道は武士の作法とカトリック教会の儀式を組み合したものであることは間違いありません。
例えば、茶巾を畳んで茶碗を拭ったり、扇子を目の前の畳に置いて手で取るのは武士の刀を持つときの作法です。
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