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明治時代に来日したイギリス人外交官のアーネスト・サトウは、「語学の天才」

アーネスト・サトウの肖像

明治時代に入り、イギリス皇室は明治天皇に「ガーター勲章」を授与したという歴史があります。ガーター勲章とは、騎士団勲章の最高位のことですが、全ての勲章ではビクトリア十字章とジョージ・クロスが上位に位置付けられています。


つまり、騎士団勲章は本来、その騎士団の一員になるという意味を持っており、イギリス女王は日本の天皇を臣下にしようとしわけです。その後、欧米諸国の謀略から離れようと、昭和天皇は自立路線を進めましたが太平洋戦争で大敗し、再びガーター勲章を再授与されています。


そもそもこの世界構造を設計したのは、語学の天才でイギリスの外交官であったアーネスト・サトウであるものと考えられます。


ちなみに、「サトウ」という姓はスラヴ系の名前で日本人によくある名前の「佐藤」とは関係がありません。しかし、親日家のサトウはこれに漢字を当てて日本式に名乗ったそうです。本人も自らの姓が日本人に馴染みやすく、親しみを得られやすい呼び方だったことから「日本人との交流に大きなメリットになった」と語っています。


幕末、そして明治維新の時に来日したアーネスト・サトウは1861年、18歳の時もイギリスのサザンプトンを出港し、上海・北京で漢字を学んだ後、通訳候補生として横浜に上陸しました。当時、イギリスではジャポニズムが流行っており、芸術的で神秘的な国としてサトウの関心を引いたと思われます。


横浜に上陸した時、サトウは日本語をほとんど話せない通訳候補生であったわけですが、それから数年後、サトウは驚くべき才能を発揮することなったとされています。サトウは、「語学の天才」であり、努力家と呼ばれています。


それを伺うことができるのが、有名なケンブリッジ大学のアストン文庫です。このアストン文庫というのは、サトウが独力で蒐集したものを、アストンに預けたものがアストン文庫となっています。


ここにはサトウの青年時代の勉強ノートが保管されていますが、幕末から明治維新時にかけて、サトウは様々な本を読破していたことがわかります。日本外史や孟子、江戸繁盛記、そして土佐日記など、ほとんど毎日欠かさず外交公務の中で古典的な著作を漢文も含めて読んでいました。


サトウは、「ヨーロッパ滞在紀行」という本の翻訳を完成させていますが、それは横浜に上陸してからわずか1年半後のことでした。たったの1年半後という驚異のスピードで、漢字カナ混じりの日本語をマスターしたということです。


サトウは当初、カナ釘流の日本文字を書いていましたが、その後書道を学び始め、数年後には流麗な日本文字を書けるほどになりました。そして、アストンと京都にまでわざわざ出かけて行っては本を買い、また東京でも大量の本を購入していることがわかっています。


当時、東京にある多くの寺は明治維新の廃仏毀釈によって経済的に困窮していましたが、その多数の蔵書さえも二束三文で古本屋に売却したようで、サトウはそれを購入したものと思われます。


サトウが購入したと思われる日本の古書は、現在でもロンドンの大英図書館に約2万冊、ケンブリッジ大学に約1万冊、ロンドン大学に約2000冊、そしてオックスフォード大学に約500冊が蔵書されており、計4万冊という膨大な数にのぼっています。


サトウは、手当たり次第に日本の古書を集めては読んでいました。彼は読んだ本の目録を自ら作成しており、それがサトウ蔵書目録と呼ばれており、サトウ自筆のもので楷書で書かれています。


イギリス人のサトウが集めた本には特徴があり、例えばアメリカ人が集めた日本の古書には必ず絵や地図が入っていますが、サトウの場合、あらゆる分野のあらゆる本が集められているため、偏りがなかったといわれています。


サトウは、自費で大量の本を集め、それを読んで内容を理解し、それを分類しながら目録まで作成していました。これを多忙の公務の間に、日々怠りなく行っているというわけです。これが「語学の天才」と呼ばれる理由なのかもしれません。

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