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「法律に書いていないなら、悪いことをしてもOK」という人間が東大出身者に出たこと

模範六法などの法律書


多くの日本人には、「東大出身者は優秀」という観念があります。確かに、官僚の多くは東京大学卒でテレビなどで華々しい活躍をされています。しかし、少し不安に思うところもあります。


それは、最近の東大出身者と話していても、どうも基本的な経済学や社会構造を知らないまま政策を行っているところです。これは東大卒だけではなく、京都大学出身者や他の国立大学卒の大学院生と話していても感じることです。


東大出身者の特徴として、話すのが上手く、知識の広さが挙げられますが、肝心の観念がないように思うわけです。観念というのは人生観のことですが、人間一人ひとりが自分自身の人生や人間全般の人生について抱く観念のことです。人生の見方についての魂のことでもあります。


東大出身者の多くは、頭がよく、ある意味天才であるかもしれませんが、人生観がないように思うわけです。話していても情緒や感動がないのは、現代人の特徴そのものなのかもしれませんが、心がロボットのようになりつつあります。


結局、こうなってしまったのも日本の学校教育で先生が日教組の中に埋もれてしまい、その方針によって文科省の学習指導要領、学校設置が行われているからであると考えられます。現在の学校教育では、仏教や神道、キリスト教などの宗教を教育に入れることができないようです。


しかし、宗教はおかしな教えではなく、必要な教えとして世界中で用いられています。日本では、戦前の軍国主義によって国家神道を強制したことで、戦後はその反動から宗教自体教育から締め出された形のままです。


では、宗教を知らないまま人は育ち、まともな社会を築けるかといえば疑問があります。実際に、「宗教がなくても教育することはできる」という日教組とその教師たちも現場では未だに続けられています。


それで、学校で道徳の時間がなくなったのかもしれません。早い話、宗教についての授業がないというのは、マルクス主義や共産主義の理論には善悪の判断がないということです。そもそも共産主義は経済理論でしかなく、個人の人生の幸せや生き方、善悪などに定義がありません。


マルクス主義というのは、人間の善意に任せたり、家庭教育するようにと、他人事としている考え方があります。だから、学校の先生はいじめや学業不良、素行不良などは家庭教育で行うようにといつまでも曖昧のままです。


つまり、学校教育には一人の子どもに対して、人として育てるという視点がないということです。教育というのは、人の生き方にとって大事なポイントを「考えてながら自覚する」という場を学校や家庭で行う必要があるわけですが、親も教師もそのことに目を背けているのは明らかです。


それに対して、学校のテストの点数はわかりやすく、楽に判断できることから、いつの間にかそれが教育方針の中心となり、卒業させて出来上がるのは「製品」ばかりになります。要するに、学校というのは品質管理の工場のようなものであるということです。


学校の先生に性犯罪者が多い理由として、生徒は一人の人ではなくモノ、あるいは動物でしかないという意識が心に現れてしまうというものがあります。先生が生徒にLINEや電話をしたり、ストーカーすることが悪いことだという考えに至らなくなっています。


それこそが、正に道徳なのですが、六法全書に書かかれていなくても、こうした犯罪は未然に防げるはずです。ところが、学校教育のおかげで「法に触れなければ、悪い事をしてもいい」という製品ばかりになってしまいました。


こうして、政治家や官僚たちのレベル低下が起こり、日本人全体にも「刑罰がないなら、悪いことしてもOK」ということで犯罪が増えたというわけです。日本の法律が甘いのは、明治時代に日本には欧米の法律体系がなかったからです。


だから、イギリスやドイツなどから法律を輸入し、そして日本の法律を欧米式の方針になってしまいました。最近は、アメリカのように何もかも法律で縛りつけ、刑罰も細かくするようになりつつあります。


本来、「人というのは善悪がわからない動物ではなく、もっと高度な存在であるはず」という法律が必要ない社会を目指すという自然法という考え方もありましたが、当時の法学者たちの激しい論争後、なるべく条文は細かくせず、罰則を緩くしました。


それは、「法律だけで規制すると息苦しくなるため、国民一人ひとりがそれが善なのか悪なのかを自分で判断し、悪いと思うなら法律にあろうとなかろうとその行為をしないはすであって、それに国は期待する」という深い願いがあったとものと考えられます。


明治時代、日本は途上国であったわけですが、当時の日本の法学者たちも真剣に議論して以来、大学教授たちはそのことすら議論できなくなっています。


その結果、仇討ちを廃止し、裁判で死刑を求刑できるようにしたのも、「社会が犯罪者を生み出すのだから、社会が責任をもって犯罪者を再教育して復帰させなければいけない」という考え方が生まれました。


それが、相当な殺人でもしない限りはなるべく死刑を求刑せず、刑務所での更生をメインにして社会に復帰させるという現在のスタイルになったというわけです。


当時の日本国民は、長い江戸時代の間も神道や仏教徒がほとんどで、外国と比べてもしっかりとした衛生観念があり、上から言われなくても宗教的な教えによって自ら親切や慈善、助け合いを行う人が多かったとされています。


警察の民事不介入もそこから起因しており、家庭の自治権を尊重したいというのが方針となっています。ところが、現代では悪いことをした子どもを叱るだけでも虐待となる可能性があり、親がどうしていいのかがわからなくなっているのが現状です。


当時、導入された罪刑法定主義というのは、元ライブドアのホリエモンのように「法律に書いていないなら、悪いことをしてもOK」という人間がついに東大出身者にも出てきてしまいました。そして、日本国民一人ひとりの精神が崩れ、その多くが「法律に書いていなければ悪いことをしてOK」と思うようになり、行動するようになったということです。


それが安倍政権であり、地方の行政の腐敗につながっています。残念ですが、今の日本国民は完全に二極化されており、「人」と「人間」に分かれてしまっています。その「人間」の中には「獣」にまでなり果てた者もいます。


実際に、自分で物事を考え、判断し、行動する人は極端に減り、自分で勉強せずに、調べることもなく、基本的な物事を考えることをしなくなりつつあります。

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