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明治時代の英語学習法を先人たちから学ぶA
 「授業はすべて英語で行われた札幌農学校時代」

正しく歴史を振り返ってみると、150年前の札幌農学校(北海道大学の前身)では、明治の英語教育で大きな成果をあげ、日本三大英文家を輩出しました。


日本三大英文家とは、内村鑑三(1861‐1930)、新渡戸稲造(1862‐1933)、武信由太郎(1863‐1930)のことです。それにしても、なぜ当時の札幌農学校から凄まじい英語の達人が生まれたのでしょうか?


札幌農学校で初期の卒業生が生まれた1880年ごろ(明治10年代)は、アメリカのカリフォルニア州でゴールドラッシュが起こり、最後の開拓期であったわけです。9000キロ近い日米間を太平洋を越えてやって来たアメリカ人教師たちは開拓使として、北海道の開拓を目指す大学で教えていました。


カリフォルニアと北海道という似たような時代を共有する土地は、アメリカ人教師による日本人学生の英語学習に一体どのような影響を与えたのでしょうか?


1880年代はというのは、アメリカと日本共々新興国としてこれから世界に出ていこうとする段階にあり、ヨーロッパ諸国の支配から独立していく時期でもありました。そのような状況の中、大学ではキリスト教信仰から自ら開拓に貢献していくという目標をお互いに共有していたものと考えられます。


さらに、農学校であったことからも、学生たちは生物学や農学などの授業を「英語のみ」で受けたとされています。教育の目的と内容のレベルがかなり高く、実践的であったとも言われています。


札幌農学校の場合、アメリカ人教師と学生たちが一緒に居られた期間は限られており、「Boys be ambitious!」で有名なクラーク博士以下のアメリカ人教師や学生は、数年で学校を去っていきました。実際のところ、互いに出会いを惜しみ、そこから強烈な人格形成が生まれたものと考えられます。


英語学習だけではなく、教育というのは教える側にとっても教わる側にとっても、時代と場、そして目的が大きな力を持つものであることは明らかです。その後、日本では国への貢献ではなく、あくまで個人的な英語による立身の発想が生まれたのもこの時期です。


それには、北海道大学の中に21世紀の日本の進むべき道が記されていました。当時、日本の進むべき道とは、西洋から学ぶというその態度にありました。内村鑑三や新渡戸稲造がクラーク博士やアメリカ人教師たちからどのようにして学んでいったのかを知ることは意義がありそうです。


なぜなら、150年前の優秀な日本人がなぜ活躍できたのかを知ることが、これからの教育についてヒントを与えてくれるからです。きっとこれは、受験英語で縛られている日本の英語教育にも大きな示唆を与えてくれるはずです。


おそらく、日本で生まれ育った日本人の中で、内村と新渡戸ほど英語が堪能であった人物はいないと思います。その秘密は、当時マサチューセッツ農科大学の学長であったクラーク博士とその優秀な教え子たちにあります。


クラーク博士は、札幌農学校に赴任した時にはすでに50代で、その時教え子のホイラーとペンハローという教え子を連れてきました。そして、その後もマサチューセッツ農科大学の卒業生が次々と札幌農学校教授として着任し、クラーク博士が想念した基礎と精神を継承し、日本の若者に伝えていきました。


彼らは学生たちの育成のみならず、北海道の農業、土木、医療などの発展に多大な貢献を行っていることは資料などで明らかになっています。その時、一体彼らはどのような授業を英語のみで行ったのかが気になるところです。


実際、授業はすべて英語で行われ、内村や新渡戸は第2期生であったことからクラーク博士から直接の授業は受けていないようです。しかし、まだ20代中盤の若いアメリカ人教師の授業を受けただけでどうしてあれほど偉大な人物になれたのでしょうか?

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